NGC598

まいにちの記録

じぶんの形

5/6

 

車で1時間半と少し。大好きな場所へ行ってきた。

青々とした海が広く見渡せる、心底気持ちいい場所。

風の心地よさを感じ、波の音を聞いて、出来るだけからだと心の容量を空けるようにした。

目をしばらく閉じた後もう一度開いてみると、さっきまで見ていた海の青がより鮮やかに感じられて、とても美しかった。

ずっとここに来たかった。実現できてよかった。

 

家族としばらく過ごして、友人にも会った。

久々の家族との時間は心地よく、たくさん喋った。

存分に子供という立場の自分を堪能した。いまだに甘えさせていただいてありがたい。

 

人との時間を過ごして、考えたこと。

 

私は人と関わった瞬間に、その人に合わせて多少なりとも形を変える。

対人用の私に変化する。

親しい間柄であれば変化する形が大体決まっているから、ほぼ無意識に変わることができる。

あまり親密でない相手だと、どんな形が適切か計りながら、変化する。

一人の時間を長く過ごしていたから、今回はその変化に敏感になり、改めて意識した。

 

昔の手帳を読み返していたら、

『「時々自分がそこにいないような感覚になる」という私に対して、当時の恋人が

「(私)は本当の自分で話していないからだよ」と言った。』というようなニュアンスの記述があった。

まぁまぁその指摘は的を得ていると思う。そのころの私はほとんどを恋人の家で過ごしていたし、それ以外の時間はサークルやバイトで忙しかった。

「ただ自然な形の自分」でいる時間が極端に少なかったのだと思う。

常に「対人にために何かしら形を変えた自分」であった。それに疲れて訳が分からなくなっていたのだろう。

唯一、卒業制作の絵を描いている時だけは、ひたすらに己の「個」と向き合っている時間だったように思う。

 

東京で一人暮らしを始めてから、一人の時間が増えたことで、自ずから「ただ自然な形の自分」と向き合う時間も増えた。

誰にも干渉されない心地よさに今まで割と満足しており、自分がそこにいないような感覚とはしばらくご無沙汰している。

この時間は、自分の人生において必要だった。

 

ただ、気がついたこともある。

一人で居続けることだけでも、自分の形は見えなくなる。

外の世界との繋がりを断つと、自分の形も分からなくなる。ある意味当たり前かもしれない。

コロナで人と触れ合う機会が少なくなった今、それを感じている。

 

自分の形は流動的。たまり続けているのも気持ちが悪いし、

内ばかりに眼を向けていても、輪郭が分からなくなる。

 

何かしらの形で自己を誰かに発信し続けないと、自分の形を見失うのかもしれない。

自分がインスタグラムに絵をあげ続けている行為は、

誰にも干渉されない自己を誰かに見て欲しいという気持ちから来ているのかもしれない。

 

自分が作品を作っている時、自分が作り出したものだけは

誰にも干渉されない自己だと言える。

 

しかしその作品を生み出す元の刺激は外の世界から得ている。

私はあくまでフィルターである。

 

尻切れとんぼだけど、東京へ戻る新幹線の中でそんなことを考えていた。